クメール王国時代
9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国。現在のカンボジアの元となった国家で、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。
ジャヤーヴァルマン7世が死去した後に激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。1283年にフビライのモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教がインドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年には仏教徒のインドラヴァルマン3世が8世を殺害し、王位に就いた。
フランス統治下
1897年から1902年にかけてインドシナ総督を務めたポール・ドゥメールにより、インドシナにおけるフランスの植民地支配の基礎が築かれた。
ドゥメールは、インドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって同化政策を推進した。以降の総督であるポール・ボーやアルベール・サロー、モーリス・ロンらはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」を目指す協同政策に転換していった。
クメールルージュの時代
クメール・ルージュ政権下において、民主カンプチアの指導者となったポル・ポトは、原子共産主義を理想とする社会の実現のために、知識層を反革命分子と位置づけ、大量虐殺を行った。知識階級に位置付けられたのは、政治家・医師・学者・教師・学生・資本家・外国人などで、その数、累計170万人~200万人ともいわれる。その歴史は、プノンペンのトゥールスレン博物館や郊外にあるチュンエク村のキリングフィールドで目にすることができる。2023年現在の年齢別人口分布図を見ると40歳代~50歳の年齢層が極端に低くなっていることが、大量虐殺を行われたことを裏付けている。
内戦の時代
1979年ベトナム軍の侵攻により民主カンプチアが崩壊した後、クメールルージュは、国際連合で中国とアメリカや日本などから支持を得て亡命政府を樹立し、カンプチア人民共和国に対して地下活動で戦闘を行った。この反政府軍(元クメールルージュ)は、1989年ベトナム軍がカンボジアから撤退した後に、国連の監視下で行われた選挙も拒否した。シハヌークによる王政復古後もカンボジアの辺境で孤立し続けたが、クメール・ルージュの残党は最終的に王国政府に投降した。後に、カンボジア政府と国連が協力するカンボジア特別法廷が開かれ、ポル・ポトとその一派は人道に対する罪で裁かれた。
経済成長期
カンボジアは2000年以降、2009年から2010年のリーマンショックの時を除き、6.5%以上の高いGDP成長率を維持しており、2020年まで年率6.5%以上の成長率を維持してきている。2016年には、経済成長率ランキングでカンボジアは世界第8位とアジアでは最も高い成長率を誇っていた。また、人口に占める若年層の割合が高く、2016年の国民の平均年齢は24.9歳となっている(日本は46.9歳)。1999年にASEAN、2004年にWTOに加盟するなど国際社会との繋がりを深めてきたカンボジアは、近年は中国やタイに代わる新たな生産拠点の一つとして注目を集めている。
カンボジア基礎データ(外務省 より引用)